サイードさん(仮名)プロフィール |
1988年 インドネシアに生まれる |
2006年 工業高等学校卒業 |
2007年 技術技能実習生として来日 |
2010年 インドネシア帰国 |
2010年 同国の大学 日本語学科入学 |
すべてが突然に物凄いスピードで動き出し、振り落とされないように必死だった
工業高校を卒業後、高校で学んだ技術を活かして、エアコンなどの家電製品の修理などのアルバイトをしながら、大学進学のためのお金を貯めていたサイードさん。そんな中、高校時代の先生から「サイード、技能実習生として日本へ行ったらどうだ?」と勧められた。
「その時は、日本は遠い所だし、家族もきっと反対するだろうと思ったので、僕は断ろうと思っていたんです」
それでも先生に「やってみようよ。きっとサイードなら技能実習生として日本でいい経験ができると思うよ」と説得された。
「日本・・・、と頭の中で想像しようとしたんですが、日本について何も想像することができなかったんです。その頃の僕にとって、日本はまだ真っ白な世界だったんです」
それもそのはず、それまで日本に興味があったわけでもなく、サイードさんはまったく日本のことなど知らなかったのだから。
「でもね、そのときに不思議な気分になったんです。何も知らない遠い国に行くことを想像すると、心の奥底から何かが沸き上がってくるようなワクワクした気分になったんです。行ってみようかなって、そこで初めて思いました」
とはいえ、サイードさんはまだ決心したわけでもなく、家族にも相談していなかった。それにも拘らず、高校時代の先生は、その翌日にサイードさんを技能実習生適性テストに連れて行った。心理テストや身体検査、そして体力測定などに合格した後、サイードさんはジョグジャカルタの町へ行き、技能実習派遣前研修を受けることになる。
「すべてが突然に物凄いスピードで動き出したので、その流れから振り落とされないようにするのに必死でした」
初めて学ぶ日本語と異国への募る不安
ジョグジャカルタでの派遣前研修では、生まれて初めて日本語を勉強した。
「最初の頃は、日本語はなんて難しいんだろうと思って、嫌になりかけたこともあったけど、だんだん日本語の勉強が楽しくなっていったんです。新しい漢字を覚えるのも楽しくて、研修の2ヶ月半の期間はとても有意義な時間でした」
もともと勉強が好きだったサイードさん。日本語も最初こそ手こずったものの、持ち前の旺盛な好奇心でぐんぐんと力をつけていった。
日本へ行くに際して、家族と離れて暮らすことに心配はなかったという。高校時代に訓練の一環として寮に入っていた経験があったからだ。
「でもですね、日本語や日本文化に対しては、とっても不安がありました。派遣前研修で勉強したとはいっても、理論と実践は違いますからね。日本へ行くのが本当に怖かった」
緊張がほぐれた現地研修
インドネシアを発ったのが2007年夏。初めての外国。初めての日本。
「このときのことは僕にとって特別な日となりました」
インドネシア人技能実習生の計6名はジャカルタの空港から日本の成田空港へと渡った。日本に着いてまず、千葉県で10日間ほどの研修が行なわれた。そこで日本文化や日本での生活様式の説明を受けた。
「こんなことをするといいよ、とか、こんなことをすると良くないよ、とか色々と丁寧に教えてもらったので、この10日間で張りつめていた緊張も少しほぐれました」
信じられる<希望>が、ぼくの中には確かにあった
その後、同志である6名の技能実習生は2名一組になって、それぞれの派遣先へと散り散りとなる。埼玉県、栃木県、そしてサイードさんはジョグジャカルタで一緒に研修を受けた一人であるバユさんと静岡県の焼津市へ向かうことになる(このバユさんとはインドネシア帰国後も同じ大学に進学する腐縁となる)。
「散り散りといっても、バユと一緒だったから一人ぽっちじゃなかった。バユがいたから寂しくなかったなんて、口が裂けても言えないけど、でも一人だったら途方に暮れていたんじゃないかと思います」
成田から電車に乗って東京駅まで行き、そこから新幹線で静岡へ向かった。
「初めての新幹線は、喜びと緊張とで変な気持ちでした。でもね、その変な気持ちの中には、確かな<希望>みたいなものがあったんです。あの時の新鮮さは、今思い出しても楽しくなります」
新幹線に乗れた喜びの反面、サイードさんの心配は頂点に達していた。日本で行動するのはこの日が初めて。駅やプラットホームのルールもわからず、生の日本語もまったく理解できず、サイードさんは新幹線の車窓を猛スピードで流れゆく景色に目をやりながら、日本に来るべきではなかったと後悔していた。
静岡駅に着くと、監理団体のスタッフが出迎えてくれた。そこから車に乗せられ、職場へと向かった。工場の人たちの前で挨拶をしたが、緊張で声が震えた。
「もちろん初めは誰だって緊張すると思うけど、僕にとっては初めて直に接する日本人でしたから、余計に緊張しました。日本人はどんな人かなって。今までは先生から聞いた教室の中だけの日本人。でもこの時に初めて本当の日本人に会ったんです。日本人は一体どんな人なんだろうと、びくびくしていました」
嫌なおばさん
その日から会社のアパートでの一人暮らしが始まり、技能実習生としての日本の生活がいよいよ始まった。工場での仕事は、主には車や船の部品をつくること。工場には6名の社員がいて、事務所で働く人を入れても8名ほどの子会社だった。
「工場をしきっているリーダーがすごく嫌なおばさんだったんです。なんでこんな嫌な人になれるんだろう、と思うくらい嫌な人だった。日本に来たばかりだし、仕事も始めたばかりで何もわからないのはあたり前なのに、どんどんプレッシャーをかけてきて、すごいストレスフルでしたよ。もっと頑張れ頑張れって。あれもこれも色々なことをやらされては怒られて」
理解できたリーダーのおばさんの目的
「でもね、3、4ヶ月経った頃にわかったんです、そのリーダーのおばさんの目的が。目的は早く僕たちに仕事を覚えさせて、僕にとっても会社にとっても良くなるようにしてくれてるんだなって。そのおばさんの目的がわかってからは、コミュニケーションをとる余裕もでてきて、少しずつ仲良くなっていったんです」
結局、そのおばさんが一番心に残る日本人になったという。サイードさんが国に帰るとき、3年間お世話してくれたそのおばさんと離れるのが一番辛かったという。
噛み締めた悔しさ
「日本人の仕事ぶりを見ていて思ったんですけど、日本人は疲れないんです。インドネシア人だとすぐに疲れたと言って休憩をとるんだけど、日本人はずっと働きつづけます。社長もリーダーのおばさんも年寄りのくせに、すごい体力があるんです。後からわかったことなんだけど、それは体力だけじゃなくて、気力や経験も大切なんだと。どんなときでも諦めないという気力が日本人にはあるんです。それを見ていて、なんで若い僕にはそれができないのかと、すごく悔しい気持ちになりました」
サッカーでストレス発散
工場の仕事が休みのときは、よく友達と集まってサッカーやフットサルをしたという。1年目は近くに住んでいる色々な国の人とサッカーチームを作り、2年目は日本人だけのチームにサイードさんも加わってサッカーをしていた。日本語が上達したのはその頃だったという。みんな日本人だからよかったという。
「3年目はインドネシア人でサッカーチームを作り、地域の日本人のチームと対戦したりしていました。インドネシア人のプレーは荒いですから、日本人と対戦するときは、あんまり激しいあたりはしないようにして、体があたったらすぐに謝るように心がけていました」
もっともっと日本が好きになる自分がいた
「日本では皆ルールに従って暮らしていますよね。信号にも従うし、ゴミ捨てのルールにも従う。日本にいる間は僕も日本人になって、日本人と一緒に同じルールを守ろうとしました。ゴミのポイ捨てを恥ずかしいと思うこと。そういうことは積極的に自分から取り入れるようにしました。そうやって自分が日本人になることで、もっともっと日本が好きになる自分がいたんです。そのときに思ったのが、なんでインドネシアは日本のようにならないのかなって」
3年間を振り返って
「3年間の日本での生活の中、もちろん色々な大変なことがありました。それを乗り越えられたのは、日本に行く前に自分自身にした約束、いや、契約かな。派遣会社とももちろん契約があったんだけど、それよりも自分の中で3年の間は何があっても自分から国に戻ることはしないと自分で決めていました。どんなことがあっても、意地でも3年間は日本にいてやろうと思っていたんです。自分の中のそういった決意というか、意地が色々な困難を乗り越える原動力となったんだと思うんです。もちろんお金を貯めることもモチベーションではありましたが、それが一番ではなかったです」
3年ぶりのインドネシアで
3年ぶりに踏む母国の土は少し変わって見えたという。道にはゴミが多く、交通ルールも悪かった。
「なんでインドネシア人はこんなことをするの、と本気で悩んだりもした。その時、これが逆カルチャーショックなんだなって思った。故郷に帰ったときね、生まれ育った自分の町が小さく感じたんです。色々なものが小さくなったように思ったんです」
今後の展望
「今はね、すごく勉強したいんです。日本語はもちろん、日本の文化や歴史のことを深く知りたい。もっともっと色んなことを知りたいんです。そして文科省の奨学金をもらって日本に留学するのが今の目標です」
「3年間日本で働いたので、今度は日本で勉強したいんです。もちろんまた日本の環境に身を置いて働きたいとも思うけど、次は日本で勉学に励むことで、自分自身もっと得るものがあって成長できるんじゃないかと思っています」
夢
「インドネシアの国のために何かできる人になりたい。国がよくなるために、僕が率先して動いていきたい。もちろん一人が動いても国は変わらないけど、皆がそうやって国のためにと思って動き出せば、きっとインドネシアの国はよくなると僕は信じてる。でもまずは自分のためにできることを探す。自分が満たされたら、次は家族。そして宗教。そして最終的に国に奉仕できればと思っています」
<完>
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