インドネシア人の元技能実習生アディさんのライフストーリー

スポンサーリンク
アディさん(仮名)プロフィール
1985年 インドネシアに生まれる。
2003年 芸術専門高校卒業
2005年 大学中退
2005年 技能実習生として来日
2008年 インドネシアに帰国
2008年 日系企業にて通訳として就職
画像はイメージです

【第1話】大学を中退して技能実習生として来日

父のような一人前のアーティストになりたかった

成績優秀だったアディさんが、芸術専門高校に進学を決めたのは、高校卒業後すぐに仕事をしたいと思ったから。普通科高校に進んで大学進学を目指すのもいいとは思ったが、木工彫刻専門の芸術家として活躍する父の姿を見て、自分も早く一人前のアーティストになりたいと思った。

「この道を選ぶことは決して間違いじゃないだろうなって、父の背中を見て決心したんです。父みたいになりたいっていう想いがやっぱりあったんだと思います」

特待生として大学入学

当初は、高校を卒業したらすぐに仕事に就こうと考えていたが、成績優秀だったアディさんは高校卒業時に芸術大学から特待生として誘いを受けた。入学金免除、授業料半額免除という好条件で、芸術大学への入学を決めた。

「高校では彫刻を学んだんですが、大学では絵画を学ぶことで、彫刻のインスピレーションを絵画から引き出そうと考え、大学入学を決めたんです。大学期間中に、自分のスタイルを確立させたいという思いがありました」

日本・日本語をめぐる冒険の奇妙なはじまり

大学入学後、絵筆を握る毎日を過ごした。2年間大学に通った後、父親の芸術家仲間のある著名人に話しを持ち込まれた。

父の友人
父の友人

なんのために大学で学んでいるのか?

アディ
アディ

卒業後に仕事を得るためです

父の友人
父の友人

仕事が欲しければ、今日本語を勉強しなさい

アディ
アディ

どういうこと? 変な話だな。なんで日本語?なんで今?

「彼はその真意を話さなかったけど、もともと僕は語学が好きだったし、日本語の文字、ひらがなやカタカナ、漢字は、それ自体がアートだと思ったんです。だから日本語学習は自分のアートに役立つんじゃないかと。それに突然そんなことを言い出すのだから、きっと何かあるんだろうな、面白そうだなと思って、日本語を勉強することにしたんです」

そして、日本語学校に3ヶ月通った後に、その父の友人はまたアディさんの前に現れた。

父の友人
父の友人

日本語は勉強したか?

アディ
アディ

はい

父の友人
父の友人

証明できるものはあるか

アディ
アディ

はいこれ、日本語学習の修了証書です

すると彼は技能実習生の話を持ち出した。彼の話を聞いて、アディさんの心は揺らいだ。

「もちろん大学でもっと絵と向き合いたいという気持ちもあったんですが、3年間も日本で働くチャンスなんて滅多にあるものじゃないし、外国で生活すること自体が勉強だと思ったんです。ここに留まるより日本へ行った方が成長できるなって思いました」

とっさにかけた天秤で、アディさんは決断を下した。

技能実習生として日本へ

技能実習生として日本へ行くことを決心したものの、両親に相談すると反対された。せっかく大学に入ったのだから、それを終わらせてからにしなさいと。アディさんは粘り強く日本へ行く理由やその想いを両親に説明し、また、言い出しっぺの父の友人にも説得に協力してもらい、帰国後にまた1から大学をやり直すということを条件に両親の承諾を得た。

【第2話】「このままじゃいけない」って思えたとき、人は成長するチャンス

工場の作業も日本語もダントツで一番・・・下手

秋の深まる9月の終わりに来日。日本の第一印象は、あらゆるものがきれいで整頓された国。また、町に木々が少ないだけでなく、建物にも木を使っていないと感じた。

「来日前はね、日本人はみんな着物を着ていると思っていたんですが、実際は誰も着物など着ていなかったことに驚きました」

技能実習生として静岡県に住むこととなり、仕事はプレスで、主には車のテープレコーダのケースのボディをつくる作業だった。

1年目は色々な面で辛かった。国では大学に入ってからずっとアーティストとして独創性や個性、創造性やアイデアを活かした制作をしてきたのに対して、工場の作業は図面通りに製作しなければならず、それが歯痒かった。

「でもね、高校時代に学んだ図面作成のスキルがここで役に立ったことが、素直に嬉しく思いました」

高校で学んだスキルを活かして、工場の作業は他のインドネシア人技能実習生と較べて上手であるはずだったのだが、一番下手だった。まず日本語ができなかったために、指導員の指示を理解できなかったのだ。

「技能実習生の中でも、日本語はダントツで下手でした。他の技能実習生はね、大学で日本語を専攻していたりで、日本人はそういう日本語のできる実習生を選んで話をしてました。僕にはその実習生の通訳を介してしか話をしてくれなかったのが悔しかった」

「このままじゃいけない」って思えたとき、人は成長するチャンスなんじゃないかな

そのようにして1年目はあまりぱっとしない日々がつづいた。

このままではいけないと思い、2年目からは他のインドネシア人技能実習生と群れるのをやめ、できるだけ日本人の近くにいるようにした。

日本人と行動を共にし、日本語を話す機会を積極的につくった。この頃から日本語の勉強にも真剣に取り組み始めた。仕事の休憩時間や帰宅後など、時間を見つけては日本語の自学自習に励んだ。

そんな努力の甲斐あってか、3年目には日本語もずいぶんと上達し、バドミントンのサークルでは、アディさんの好きな女性のタイプそのものという日本人女性エリさんと出会う。

「彼女はね、僕の好きな女性のタイプそのものだったんですよ。こんな嫁さんがほしなって思ってた人が目の前に現れたもんだからね、そりゃあもう俄然日本語の学習にも熱が入りますよ」

初めは顔見知り程度の関係であったが、二人は互いに少しずつ惹かれ合うようになり、後に二人は結婚することとなる。

仕事もプライベートも一緒に過ごした大切な日本人の友だち

住んでいたアパートには、同じ工場で働く日本人が住んでいた。彼らの影響を受け、アディさんはその頃からパソコンに興味をもち始める。

連日連夜、同僚の日本人の部屋を訪ね、パソコンの教授を受けた。

「電気屋でパソコンを買ってね、ハードウェアもソフトウェアもぜんぶ自分で設定して組み立ててね、わからないことがあれば頭を抱えて考える。試行錯誤してその問題をやっと乗り越えたら、次の壁がまた立ちはだかる。のめりこんでいきました」

気がつくと、アディさんの周りにはたくさんの日本人がいた。

「パソコンがきっかけで日本人の同僚と仲良くなって、色んなところに遊びに行くようになったんです。ボーリングだったり、ビリヤードだったりと、仕事もプライベートも彼らと一緒に楽しく過ごすようになったんです」

そんなこんなで、アディさんの日本滞在期間はあっという間に過ぎていった。

【第3話】帰国後:未来は現在の結果なんじゃないかな

アディさんの目に映った日本

「ルールがAだったら、それはずっとAで、A’になったりA1やA2になったりはしないのが日本。また、インドネシア人とくらべて、日本人はけっこう言いにくいことでもはっきり言うと思います。インドネシア人だったら遠慮して言わなかったり、後で言ったりすることでも、日本人はその時にずばっと言うんだなって思いました」

帰国後は日系企業で通訳 怒る時は社長に感情移入

3年間の日本での生活を終え、インドネシアに帰国後は、スマランの町の日系企業で通訳の仕事をはじめた。

「通訳の大変なところは、やっぱり専門用語。でもそれはある程度慣れるんです。一番大変なのは、通訳っていう仕事は、どうしても上司が部下に命令したり注意したり、怒ったりすることが多いから、他の従業員に通訳の立場から厳しいことを言わなければいけない立場にあること。本当は仲間であり同僚である従業員に、社長や上司の立場からものを言わなければならないことが辛い。でもね、怒る時は社長に感情移入しなければ仕事にならないんです

日本へ発つ前にした両親との約束

それと平行して、日本へ行く前に両親とした約束通り、また1から大学にも通いはじめた。

「芸術大学に行こうという考えはもうありませんでした。結婚して家族がいるので、アートの世界にまた入るのはリスクが大きい。芸術家としてトップになるには時間がかかるし、トップになれるという保証もない。なれなかったら食べていけないんで、そしたら家族を犠牲にしてしまうでしょ」

アディさんは、日中は日系企業で通訳の仕事をし、夜は夜間大学に行くことにした。日本で興味をもったプログラミングをもっと専門的に学ぶことにした。

エピローグ:将来の夢

「将来はね、何かビジネスをしたい。今まで自分がやってきたことを全部つかって、一つの事業を起こしたいな。デザインならアートを、ネット販売とかならプログラミングを活かせられる」

「でもね、10年後を考えて、どうなるんだろうと考えても、結局、未来は現在の結果だと思うんです。今やってることの結果。ぼくは日本でコンピュータに興味をもった。その結果、今、大学でプログラミングを学んでるでしょ。今のこの時間がきっと未来につながっていると思うんです。今日したことは必ず明日に役立つ。無駄なことなんて何もない

「『今日はこれだけしかできなかった』じゃなくて、『これができたよ』って思うように生きていきたい。それは妻のエリがいつも僕に言ってくれること。僕の一番好きな言葉なんです」

<完>

コメント

タイトルとURLをコピーしました